別れの瞬間は、いつだって突然やってくる。
Vaundyの『こんな時』は、そんな言葉にできない感情を、
何気ない日常の描写と穏やかな語り口で丁寧に描いた楽曲です。
本記事では、歌詞に込められた情景や意味を一節ずつ読み解きながら、
「別れ」と「再会」、「静けさ」と「祈り」が交差する
Vaundyの繊細な詩世界に迫ります。
『こんな時』冒頭Aメロの解釈
歌詞
輪廻して あなたに会うたび思います。 創造は 乗り越えるための車輪だと。
解説
「輪廻」は仏教における生死の循環を指す語ですが、この文脈では「繰り返される出会い」の象徴として用いられています。
「創造は / 乗り越えるための車輪」という表現からは、表現することが痛みを越えるための手段であるという姿勢が読み取れます。
Vaundyの他楽曲『Tokimeki』『しわあわせ』でも、音楽が救済装置として描かれており、ここでもその意識が一貫しています。
歌詞
輪廻して あなたに会うたび思います。 特別が 私の中にもあったこと。
解説
同じ構文を繰り返すことで、出会いが記憶に深く根づいていく様子を描いています。
「特別が / 私の中にもあったこと」とは、相手の存在によって自分自身が変化し、何か大切なものを内包していたことへの気づき。
恋愛とも友情とも限定されない普遍的な感情が、この短いフレーズに込められています。
歌詞
いつも偶然を装うように いつも運命を模るように
解説
「偶然」と「運命」は、一見対照的でありながら、人生の出会いにおいてはしばしば曖昧に混ざり合います。
「装う」「模る」という語からは、出会いが自然に見えて実は必然だったという含みが感じられます。
Vaundyはインタビューなどで「計画よりも生まれてしまった作品に意味がある」と語っており、この一節にも“導かれるような出会い”への信頼がにじみ出ています。
『こんな時』
還るという言葉に託された魂の循環
歌詞
輪廻して あなたが還るたび思います。 この全て 後の祭りで終わること。
解説
「還る」は肉体的な帰宅ではなく、魂が本来の場所へ戻るという深い意味を持ちます。
「後の祭り」という言葉は、すべての出来事が過ぎ去ったあとにようやく気づく無常さを表しており、
仏教的な「諸行無常」の思想が込められています。
結局、意味や真実は“あとから”しか見えてこない──そんな世界観が感じられます。
歌詞
輪廻して あなたが還るたび思います。 この果てで あなたにもう一度会えること。
解説
「還る」が繰り返されることで、別れが何度も繰り返されてきた関係であることが示唆されます。
「この果てで」の表現は、今世の終焉とも、来世での再会とも取れます。
これはVaundyの他曲にも通じる“またいつか”の希望を語るモチーフであり、 死別や離別の先にも温かさが残る世界観を提示しています。
『こんな時』
ささやかな言葉が心をつなぐラスト
歌詞
あくびして 涙拭い、ふと思います。 今日はそう 一粒余計に多いこと。
解説
あくびと涙という身体的な反応を重ねることで、感情の混ざり合いをさりげなく描いています。
「一粒余計に多いこと」は、悲しみがわずかに強かったことを表し、
それが言葉ではなく“体の反応”として現れる点がとてもVaundy的です。
歌詞
こんな時 送る言葉が浮かばないもんで、 皆ひとしきりこう言います。 あなたに会えてよかったと。
解説
「こんな時」とは、別れや弔い、人生の節目を想起させる瞬間。
感情が大きすぎるとき、人は言葉を失います。
それでも最後には「会えてよかった」と言える──その感情の純度に、誰もが共鳴するのではないでしょうか。
歌詞
輪廻してまたね この先で会いましょう。
解説
曲を締めくくる「輪廻してまたね」は、別れの言葉であると同時に再会の約束でもあります。
「この先で会いましょう」というフレーズは、未来や死後、または夢の中でも通用する曖昧な優しさを湛えています。
最後の一節に込められたその言葉は、まるで静かな祈りのように心に残ります。
まとめ|巡る別れと再会、その先へ
『こんな時』は、派手な展開ではなく、淡々と語ることで感情を深く届ける一曲です。
「輪廻」や「還る」という語を軸に、出会いと別れ、再会への願いが静かに描かれています。
Vaundyは、心の深部にある感情を、
派手な演出ではなく、日常に寄り添った描写で表現します。
『こんな時』は、別れの痛みをそっと受け止め、
その先にある希望を照らしてくれるような、
静かで力強い祈りの歌でした。